こんにちは SmashKf です。
【祝】全国制覇 ハワイ大好きJALマイラーの沖縄旅行シリーズの5記事目です。
昨年の11月に2泊3日で、かねてから念願の沖縄へ夫婦で旅行に行きました。どうして【祝】であり念願だったのかは、初回の記事に書いたのでもし良ければご覧ください。
沖縄本島南部には、太平洋戦争当時の陣地壕や、住民が避難したガマ、慰霊の塔などの戦争の跡が多く残り、平和学習などで訪れる方も多いです。
今回は重い話題ですが、初めての沖縄旅行でもあり、昭和戦後生まれの日本人として絶対に風化させてはいけない戦争の傷跡の話です。
沖縄では、「本土防衛」最後の砦として日本軍の基地や陣地が本島や離島に建設されました。その結果、民間人を巻き込んだ激しい地上戦が展開されました。
この沖縄での戦闘は、1945年6月23日未明に牛島司令官が自決したことにより、組織的戦闘は終結したと言われていますが、その後も局地戦が引き続き行なわれており、最終的に沖縄の日本軍がアメリカ軍との降伏文書に調印したのは9月7日でした。ポツダム宣言で敗戦が決まった8月15日よりも後のことでした。
この戦闘では軍人だけでなく民間人も戦闘に巻き込まれ、貴い命を失いました。犠牲者は、民間人約10万人を含め約20数万人といわれています。
ひめゆりの塔
昼食で沖縄そばを食べた後に向かったのは、ひめゆりの塔です。沖縄そば専門店南部そばからは国道331号線を南へ5.1kmの場所にあります。
ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館は同じ敷地内にあります。
ひめゆり学徒隊
1945年4月、沖縄にアメリカ軍が上陸し、激しい地上戦が展開されました。そんな中、沖縄の中等学校から生徒たちが動員され戦場に駆り出されました。
女子学徒は15歳から19歳で、主に陸軍病院で看護活動にあたりました。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校からは、生徒222名、教師18名が南風原の沖縄陸軍病院に動員されました。そしてそのうち136名が戦場で命を落としました。
沖縄県立第一高等女学校は「乙姫」、沖縄師範学校女子部は「白百合」と名づけられていました。両校が併置された後、両方の名前を合わせて「姫百合」という愛称で呼ばれていました。
戦後になって、ひらがなで「ひめゆり」となり、動員された生徒・教師たちを「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになりました。
ひめゆりの塔
ひめゆりの塔は1945年の沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑です。学校全体の死亡者227名(ひめゆり学徒隊136人、その他在校生・教師91人)が刻銘されています。
沖縄戦の翌年に両校で最も多くの犠牲者を出した「ガマ」の上に建てられました。洞窟や壕のことを沖縄の方言で「ガマ」と呼んでいます。
沖縄陸軍病院第三外科豪跡
奥の慰霊碑の前に穴があいている「ガマ」が沖縄陸軍病院第三外科壕跡です。
この「ガマ」は、陸軍病院第三外科が撤退後に入っていた壕で、「伊原第三外科壕」と呼ばれています。ここには、ひめゆり学徒を含む陸軍病院関係者、通信兵、住民などおよそ100名がいましたが、解散命令後の6月19日早朝、アメリカ軍のガス弾攻撃で80名あまりが亡くなりました。
今でも全国から千羽鶴が送られてきています。
ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりの塔を左に抜け、敷地の一番奥にひめゆり平和祈念資料館があります。この施設のみ有料となります。
ひめゆり平和祈念資料館は1969年6月23日にひめゆり同窓会によって設立されました。展示室は全部で6つゾーンに分かれていて、館内での写真撮影は禁止されています。証言映像や当時の写真、壕の実物大模型などを通して、ひめゆり学徒隊の沖縄戦の実相を伝えています。
学徒たちは戦場に駆り出されると知った時、最初は林間学校に行くくらいに思っていたそうです。1週間位で日本が戦争に勝ち、自分たちも先生に褒めてもらえると思っていたそうです。まさか友だちが死んだり自分がけがをしたりするとは思っていなかったようです。
最後のゾーンには、紙とペンが用意されていて思いをしたためることが出来ます。思うところは多々ありましたが、あまりにも重いので今回は書くことが出来ませんでした。
特別展として「ひめゆりとハワイ」が開催されていました。本来はハワイで開催する予定でしたが、コロナ渦のためひめゆり平和祈念資料館での開催になったようです。
- 住所:沖縄県 糸満市字伊原671-1
- 電話:098-997-2100
- 営業時間:9:00~17:25(最終入館17:00)
- 定休日:年中無休
- 入場料:平和祈念資料館 大人:450円 高校生:250円 小・中学生:150円
平和祈念公園
次に向かったのはひめゆりの塔から国道331号線を東へ3.7km車の場所に位置する平和祈念公園です。
平和祈念公園は沖縄本島南部の沖縄戦終焉の地となった糸満市摩文仁(まぶに)の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にあります。
沖縄戦最後の激戦地で沖縄戦跡国定公園の指定を受けています。
平和の広場から望む太平洋です。生憎の天気でしたが、晴れていればきれいな海が見渡せます。沖縄戦の時はこの沖合からアメリカ軍の艦砲射撃がありました。
約40ヘクタールの広大な公園内は、霊域ゾーン、園路広場ゾーン、平和ゾーン、レクリエーションゾーンの4つのゾーンに分かれています。
ゴルフカートのような園内バスが運行しています。(100円/1回)ボランティアの方が運転手でしたが、廻りながら説明もしてもらいました。停留所以外での乗降も可能で広い園内の移動に便利でした。
沖縄戦終結50周年に除幕した「平和の礎(いしじ)」には、国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦で亡くなられた全戦没者24万人余の氏名が刻まれており、遺族や平和学習の団体等、多くの人々が訪れます。
この日は数組の修学旅行生が訪れていました。
「平和の礎」のメイン園路は、6月23日の慰霊の日における日の出の方位に合わせています。上の写真の石タイルの縦目地の延長線上から太陽が昇ってきます。
平和の広場中央にある平和の火です。平和の火は、世界の恒久平和を願い、沖縄戦最初のアメリカ軍の上陸地である座間味村阿嘉島で採取した火と被爆地広島市の平和の灯及び長崎市の誓いの火から分けてもらった火を合火し、1995年6月23日の慰霊の日にここに移して灯したものです。種火は、平和の広場の地下に保存されています。
奥に見えるのは、沖縄県平和祈念資料館です。
常設展示室は「住民の視点で捉えた沖縄戦」を展示理念としています。
悲惨な沖縄戦の実相及び教訓を後世に正しく継承するとともに、平和創造のための学習、研究及び教育の拠点施設として活用されています。
- 住所:沖縄県糸満市字摩文仁444番地
- 電話:098-997-2765
- 営業時間:公園 8:00~22:00
- 定休日:年中無休
- 入場料:無料(平和祈念資料館、平和祈念堂は有料)
今回、初の沖縄旅行の最初に戦争の傷跡が継承された2カ所を訪問しました。
特に戦争が激化する中、学徒隊や民間人が日本軍とアメリカ軍の激しい地上戦に巻き込まれてしまった悲惨な事実を忘れることは出来ません。
遺留品の展示や戦争の歴史を学ぶ「平和資料館」は、戦争の愚かさを教えてくれました。
日頃あまり意識しない「平和」のありがたみを改めて実感することになりました。
Mahalo !
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